~始まりは下野 藤岡村~
栃木県の南端である栃木市藤岡町は、渡良瀬川と渡良瀬遊水地を有し、かつては魚捕り、湿地のヨシ、スゲを使ったヨシズ編み、菅笠などが盛んな地でした。
また、渡良瀬川は利根川の支流であり年貢米や流域の物資を江戸まで運ぶ大切な水路でした。
1577年(天正5年)
家伝によると岩崎家の先祖である岩崎政國が農民として下野の国 藤岡村(現栃木市藤岡町)に住居を定め、代々年寄(庄屋の補佐役)と脇本陣(公用旅行者休泊施設)を勤めていたとされます。
~穀物商、醤油造り屋としての始まり~
1842年(天保13年)
江戸幕末家運が傾きます。そこで清七の祖父 清兵衛は、わずか3両を元手に「銭屋」の屋号で米穀商を始めます。
渡良瀬川を利用し、野田の醤油造り屋に原料の米・大麦・小麦、加えて近隣の特産品である菅笠・竹製品の運搬。さらに、米・大麦等を江戸深川まで運搬。
また野田で原料を卸している内に、醤油造りを習得。毎日よく働き、倹約につとめた結果、家運を回復させ、また自身で醤油造りを藤岡村で始めます。
会社の歩み | 岩崎清七の歩み |
~江戸~ 1842年(天保13年) 清七の祖父清兵衛が「銭屋」の屋号で栃木県藤岡村(現 栃木市藤岡町)で米穀商、醤油造りを始める |
岩崎清七(1864~1946年) |
1864年(元治元年) 栃木県下都賀郡(現栃木市)藤岡町に生まれる |
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~明治~ 明治維新後に東京進出 米穀商や醤油醸造業を手広く開始する |
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1872年(8歳) 廣才館(後の甲校)開設に伴い入学 |
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1878年(14歳) 博才館卒業後、家事見習いの傍ら漢学者・森鷗村の家塾に入門 |
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1881年(17歳) 片山管太郎(後の潜)を慕い、蒸気船「海運丸」に 乗船し東京へ 岡鹿門の私塾で漢学を学ぶ |
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1882年(18歳) 片山と共に海軍予備学校長・近藤真琴の私塾(後の攻玉社)へ転ずる |
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1883年 (19歳) 家督を相続し、三代目清七を襲名する 慶應義塾に入学 |
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アメリカ留学の同窓と |
1884年(20歳) 福澤諭吉の紹介で留学生として渡米/横浜→サンフランシスコ。ニューヨークに向かい、Dr.ヨハンソン/前東大教師の世話になる コーネル大学に入学(化学専攻) |
1885年 清七の父清衛が茨城県古河町(現古河市)に「銭屋」の支店(米穀業)を開業 藤岡の本店は醤油製造業に特化 |
(21歳) 高橋新吉(ニューヨーク領事)らに相談しイエール大学法学部に入学 |
1889年 創業/「銭屋」の支店として、東京・深川にて家業(米麦類卸売業)を継ぐ |
(25歳) 法学士と会計・経理修士号を取得し卒業、 帰国 澁澤栄一(第一国立銀行頭取)の勧誘を辞して家業を継ぎ、岩崎清七商店を創業 |
1904年(明治37年)当時の社屋 東京深川 佐賀町 |
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1894年 日清戦争時、軍馬飼糧大麦三万石を落札 |
(30歳) 千代と結婚 |
1900年 パリ万博博覧会に日本代表として醤油を出品し、ブロンズ賞を授与 |
フジセーの商標で販売 |
1904年(40歳) 日露戦争時、一万人の人夫を動員し、馬糧の大量調達に活躍する |
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1907年(43歳) 磐城セメント設立発起人(設立総会会長から第二代社長) 日清紡績、日本製粉(後に社長)、東京瓦斯(後に社長)の経営に参画 参画、創立再建した会社は八十余社にのぼる 東京商工会議所副会頭 |
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1909年(45歳) 二度目の満州視察 |
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~大正~ |
1916年(52歳) 落花生油製造会社の保証人として巨額の負債を負う。 これを茂木七郎衛門(野田醤油 現キッコーマン初代社長)に助けられる |
1918年(54歳) 第一次世界大戦とともにインフレが生じる→寺内内閣「暴利取締令」を発す 清七は本令は暴政であり国民の思想を悪化させると考え、仲小路農商務大臣、東京商工会議所会頭・藤山雷太(元外相愛一郎の父)、澁澤栄一に会い、政府に本令の停止を説く |
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1919年 資本金100万円の株式会社組織に改組 |
1922年(58歳) 東京商工会議所の議員となる |
1923年 米、大豆、麦、醸造原料食品の販売を始める |
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~昭和~ | 1927年(63歳) 日本実業家協会会長就任 |
1929年 ジュネーブで行われた第12回国際労働者会議に出席し、演壇で発表する清七(65歳) |
1929年(65歳) ニューヨークで元大統領タフト(第27代・イエール大学同窓生)と労働問題について面談 アームストロング(労働教育の大学の創立者)との面談 「労働第一主義の精神、幸福の基盤は労働にある。労働とは勤勉努力であり、誠心誠意である。 この労働が生活安定と国家の繁栄の源となる。」 ノーサンプトンUSAでクーリッジ前大統領(第30代)と会議 第12回国際労働者会議/ジュネーブに使用者代表として出席 イタリアでムッソリーニの独裁政治とその経済状態、労使間の実情の調査を行う |
1933年(69歳) 生涯の友人である片山潜、モスクワで死去 |
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1935年(71歳) 満潮視察団の団長となり、満州特産協会の総会に出席 『欧米遊蹤』を出版する |
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1936年(72歳) 東京商工商工会議所を代表して出征軍人慰問使として満州訪問 『満鮮雑録』を出版する 妻・千代他界する |
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乞われてとある新聞社に揮毫する清七 |
1939年(75歳) 『財界楽屋漫談』をする出版。 |
1940年(76歳) 日華早期和平に心血を注ぎ、宇垣一成陸軍大将と蒋介石(中国の軍人・政治家)を結び、 和平実現のため巨費を投じ国難を救わんとする。 |
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1941年~1947年 国の食糧統制令により、事業は実質的に休業状態となる。 |
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1945年 戦災で深川の社屋焼失。 |
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1946年 業務の一部(営業部)を丸の内ビルヂングに設置 |
死去(83歳) |
1950年 本社事務所を丸の内ビルヂングへ移転 |
参考資料(著書) 「歐米遊蹤」岩崎清七著 アトリエ社 昭和08年刊 「満鮮雑録」岩崎清七著 秋豊園出版部 昭和11年刊 「財界楽屋漫談」岩崎清七著 富士書房 昭和14年刊 「藤岡町20世紀に活躍した人」進上芳雄著 下野新聞社 平成15年刊 |
1952年 東京穀物商品取引所の会員となる |
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1963年 株式会社東京馬糧の前身、東京馬糧店として東京都文京区において馬糧販売を開始 |
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1969年 深川の土地・社屋を売却する。 |
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1977年 岩崎醤油の営業権を正田醤油へ譲渡 |
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1978年 東京馬糧店の事務所・工場倉庫等を茨城県江戸崎町(現稲敷市)に移転 |
茨城工場倉庫建設当時 |
1982年 セントラルソーヤ社/USAと技術提携。 配合飼料の製造販売を開始。 |
初期馬用配合飼料 GRAND-PRIX(グランプリ) |
1985年 資本金300万円に増資 |
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~平成~ 1990年 株式会社東京馬糧を設立(資本金1,000万円) |
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1992年 資本金1,000万円に増資 |
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1995年 Jackson Horse Service社(USA)と業務提携/鑑定業 |
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1999年 丸の内ビルヂング取り壊しに伴い、会社事務所を新丸の内ビルディングへ移転 |
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2000年 Duralock社(UK)と取引開始/日本代理店へ(フェンス・ゲート) |
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2002年 丸の内ビルディングオープンに伴い、会社事務所を丸の内ビルディングに移転 |
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2003年 Cheetham Salt社(Australia)と業務提携(塩) |
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2006年 フリアーシステムズジャパン社(FLIR社/Sweden)と取引開始(サーモカメラ) |
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2011年 東京馬糧の工場機能を茨城県東町(現稲敷市)に移設、馬用配合飼料の製造開始 |
2010年 創業120周年記念として、創業者 岩崎清七の足跡を記した書『不撓不屈』を出版。 |
2016年 Classic Treadmills Australia社(Australia)と取引開始(トレッドミル) |
2013年 『日本の興亡と岩崎清七翁』復刻版を発行。 本書は先の『不撓不屈』の参考資料の一つ。 |
~令和~ 2023年 東京馬糧 新工場竣工、茨城県美浦村に移転 |
美浦新工場 |